原爆投下直後の被爆者達
被爆の体験を話せと言われるんですけど、私は直接の被爆者ではないんです。当時、私は陸軍被服敞に籍をおいてました。被服敞っていうのは軍隊の関係の服を縫う所です。そのころ広島に爆弾を落とされそうなからって、いわゆる疎開ですね。工場を分散しとったんで、出張でミシンの据え付けに出っとった留守にドカンときたわけです。出張が二、三日遅れとったら私も死んどるかもわからん。

八月六日の夕方四時頃でしたかね。体に火傷をした人、顔は真っ赤になって皮がはげた人が三次の方へ入って来だしたんです。「あなた、どうされたんですか?」って聞いたところが、「私の頭の上で爆弾が破裂した」とどの人に聞いても言うわけですね。でも自分の頭の上で爆弾が炸裂するわけない。四時頃までに戻ってこられたのが、20人余りですかね。「広島どうなってます?」って聞いたら、「全滅ですよ」って言う。この人ら大げさに言うてやのって思うとったんですよ。

そしたら、八時過ぎに「元気な者は皆集まれ。広島市内が大変なことになっておるから、今から水を汲めるだけ汲んで市内に応援に行く」って言うことで、トラックを5台ぐらいチャーターして、積めるだけの容器に水を入れて、夜通しかけて広島市内に戻ったんです。男が14・5人、女の人が多い職場なんで、女の子も40人ばかり一緒に帰ったんです。広島駅と己斐駅(現西広島駅)の中間に横川というとこがあるんですけど、そこへ着いた時、そこの沿線の近くの農業倉庫に火が入っていて、それも焼け残りですけど、倉庫がゴウゴウ言うて燃えてました。そこら近辺に被爆した人がへたり込んでるんですね。動きがとれんようになって。皆裸足。半分は裸。女の人も光にやられたから髪の毛がチリチリになって、灰とか埃とか被って、黒い髪が灰色になっている。顔は真っ黒け。その真っ黒いうのが窓際におられた人だと思うんですけど、爆風と同時に粉々になったガラスが顔に刺さって、血が出て止まったのは止まったんですけど、乾いて、それが真っ黒に見えるんですね。時々キラ、キラ、と光るんです。よく見るとガラスがあちこち刺さっている。

横川から広島市内を見たところ、宇品の島がポッコンと見えた。建物が何もないんですね。残っていたのが中国新聞のビルと福屋のビルと、後はちょっとした鉄筋が残っとるだけで、きれいに瓦礫です。それを見たとたんに応援に帰った40人余りの女性の半数以上がへたりこんでしまった。「応援に帰って自分らがへたりこんじゃダメじゃないか」と言う班長らの叱咤激励で何とか持ち直した。

市内は死体やら転がっとって、トラックが入れないんですね。トラックは横川で降りて、後は歩いて、はじめは4列縦隊で入ったんですけど、余りにけが人やら死体が転がっとるんで、一列で縫うたように歩くわけね。それが途中で、私ら兵隊の格好をしとるから「兵隊さん助けて下さい」って足にさばりついてくるんですけど、いちいち「あぁ、そうですか」って助けられる状態じゃなかったんで、「後で収容に来ますから、離して下さい」って無理矢理離して、被服敞にどうにか辿り着いたんです。その途中、Tの字の架かった相生橋があるんですよ。そこを通った時に橋が波打ってるんですね。爆風で片方の欄干は川に落ちて、反対側は橋の上に倒れている。広島は川が多いから、あちこちに橋があるが皆そういう状態です。どっちから爆風が来たか分かるわけです。

 倉庫の様子
一応、隊を組んで一班が5人か6人の班を作って収容に歩きました。原爆が落ちたところは紙屋町の近所なんですけど、紙屋町から大手町・千田町を私ら担当して整理してくれって入ったんですけど収容しきれないんです。トラックが入れるようになったら、トラックに死体を積んで、被服敞に収容しました。被服敞の倉庫には煉瓦倉庫で50センチ角の鉄格子のはまった小さな窓が北西の方へ2つくらいあって、後はコンクリの固まりです。私は七日に帰って泊まってから五日間ほど倉庫の中に寝泊まりしたんです。

原爆にあった人は動けんからトイレへよう行っちゃないでしょ。大便小便垂れ流しです。バケツが置いてあるんですけど、かつかつ這っていってできる人はそこでしても、変えてあげる人がおらんけ、あふれてしまう。三日目くらいから死体が腐ってくる。一番先に腐るんがお腹から。ほやから、糞尿と火傷の臭いやらがごちゃまぜになって臭いのを通り越して、異臭が鼻を突くっていう感じ。それに「おとうさーん」とか「おかあさーん」とか「助けてー」とか言う悲鳴やらで、はじめ寝られんのですけど、だんだん体が疲れてきて八日の晩くらいは疲れ果てて、寝ることができました。でも4日目には倉庫へ寝られんからって、毛布一枚持って地べたで寝てました。で、呻きが少なくなって、この人少しは楽になったかなっと思ったら、次の朝亡くなっとる。

私ら被服敞ですから着るものとか布はたくさんあった。女性の方は爆風と熱で衣服剥ぎ取られて自分は半傷半死でも、やっぱり恥ずかしいという気があるから、前を隠しておられるんですよ。「これないとかけとって」って、布を切って背中からかけあげる。そうしたら「ありがとうございます」って言われる。今度薬を塗ってあげる時に脱がさんといけん。脱がすとザッと皮膚が皆ひっついてくる。明くる日も又、脱がすでしょ。そしたら皮膚がひっついてくる。そう言う人は二日ともたんですね。体の半分以上焼けとる人は。中心の人は服を着とっての人が少なかった。爆風と焼けてね。ちょうどボロボロの服を着とるのか、皮膚が垂れとるのか見分けがつかんかったですね。

「水をくれ」って騒いでじゃけど、「水をやったら、すぐ死ぬから」って上官から止められとったんです。それでも水道がやぶれて(壊れて)、チョロリチョロリ出よる水を溜とくんですけど、夜中にそこまで這いずって行って水を飲んで死んどる人がだいぶおりました。

後、体の破片を抜くのが大変でした。痛がるから。そいじゃって、顔も洗えんでしょ。私らも小さなヤットコみたいなでだいぶ抜いてあげたけど抜けきれんやったですね。半身はいいんですけど、もう片方がやられて骨が出とるような人でも空襲警報が鳴ると、いざって逃げようとするんですね。

まぁ、私らが収容したのが始め60人から70人位おった。おかゆを炊いて食べさせるんですけどほとんど食べんですね。口に持っていくけどすするだけ。食べるだけの力もなくなった人が収容されてきているんですからね。三日、四日目からどんどん死んでいきました。七日目、八日目には倉庫に収容した人はほとんど亡くなって、私らが皆出して焼いたから倉庫に収容した人はほとんどいなくなりました。

亡くなった人を焼いた
亡くなった人を倉庫へ置いとくと、伝染したように次々に亡くなっていくから、亡くなった人を広場に集めといて、40センチか50センチの溝を掘りまして、木をつっこんで死体を重ねて、重油をかけて、焼いたんです。そのまた焼く時の臭いがどう言うて説明したらいいか分からんけど牛肉焼く時には、ええ臭いがするけど、人間を焼く時は髪もなんも一緒ですからいい臭いはしません。夜焼きよったら飛行機が来て空襲があるから、昼間焼く。初めて人を焼くのを体験したんですけど、動くんですよね。スルメでも火にかけるとグルッと曲がりますね。人間の体も焼き出すと動くんです。手やら足が。そのことを始め知らんから「あ、生きたまま焼いた」って思った。

最初は男の人と女の人を分け、頭の向きを揃えて焼きよったんですけど、4日目にはそんなことしとられんので、男の人も女の人もごちゃまぜ。それと服をきとってと意外と焼けにくいんです。それを鳶口みたいなに引っかけてはがして焼いたんです。あやまって鳶口がお腹なんかに刺さるとザッと内蔵が飛び出ます。

その当時産めよ増やせよで、お腹の大きい方もだいぶんおられた。妊婦の人がブツブツ焼けてくると膨張して弾けて、赤ちゃんが出てくる。その赤ちゃんはきれいなんですよ。お腹のなかじゃけ、カバーされてて、むろんお母さんが死んどるから赤ちゃんも死んどる。きれいなまんまね。仕方ないから赤ちゃんも妊婦の人と一緒に焼いた。

当時名札がついとるのが布ですから衣服が吹っ飛んでたり、焼けたりで名前が分からんのです。そんな人達が、行方不明者の慰霊におられる。名前が分かった人は、爪と髪の毛を切って封筒の中に入れ、誰々って書いて、煉瓦の壁に貼り付けた。遺族の人が持って帰れるように。終戦の前の日にそこを引き上げた時見に行ったんですけど、まだずいぶんの封筒が貼ったまんまでした。取りに来る家族の人も亡くなったんじゃないかと思うんです。

今じゃったら焼いたら骨壺に入れて大事にするでしょけど。その当時は分からんから、スコップの背中で骨を叩いて、粉にして灰と一緒に蓮田の中に皆捨てました。今行ってみますと、そういったところは全部埋め立てて、整地してきれいな家がいっぱい建っている。そこらに住んでいる人は、そこらで焼いた骨が捨ててあるって知っちゃいないでしょう。

皆さん、野球なんか見られる時、広島球場が映るじゃないですか?あそこら、死体の山じゃったですよ。野球選手らが走ったりするとことは傷痍軍人やら兵隊やらもの凄い遺体の山じゃった。兵隊がどうしてわかるかっていうと腰にゴボウ剣って短剣をつっておんです。それらが原爆で焼けて裸になっても残るわけですね。「この人は兵隊じゃ」「この人は傷痍軍人じゃ」ってわかるんです。

 市内の様子
今の原爆ドームの前あたりに来た時に電車道で外人さんが一人亡くなっていました。アメリカ人かイギリス人か私らには到底分からんのですけどね。その人関係ないんでしょうけど、敵国言うんでしょうね。石を皆が投げとったらしんですよね。私があそこを通ったのが七日のまだ夜が明けん3時半か4時でしょうね。その時に、石が20個余りぶつけてバラバラ落ちとったんです。後の話ですけど、二日目に方々死体を拾い集めに行った時には、もう石の山で外人さんは見えんようになっとった。「あ、ここに外人がおる」って皆で投げたんでしょうね。その方も自分も被爆してそこまで逃げてきて、そこで死んだらしい。そこへ日本の人が石をぶつけて、石の山になってました。

防火用水って、焼夷弾が落ちた時に水をはっとって、その水で火を消すっていうんで、一件に一個は置いてあったんです。小学校の三年か四年くらいの子達が火に追われて逃げてきて熱さに耐えかねて、防火用水の中に頭を突っ込んだんですね。頭を突っ込んだまま皆死んでるんですよ。防火用水の容器に4人から5人が頭をつっこんどる。それを家族の方らしい人が来て、自分の子どもじゃないかって引っ張り上げて、顔を見て違っていると、そのまま伏せて拝んでおられる。あちこちでありました。

熱さに耐えかねて川に飛び込んだ方は川の中で亡くなられてました。広島の川は海の水が入ってくるんで、満ちたり引いたりするんですね。それでゴミでも人間でも岸に寄ってくるんです。私らも水道も何にもないし汗はビッシャリ出るしで、川に水浴びに行くと、死体がいっぱい岸に寄ってるんですね。だから3~4人で行って、拝んで「ごめんなさい」って言って、向こうへ押す。空間ができたところに一人がザブンと入る。次の人が入る時にはもう寄ってるから、又死体を押しのけて入る。川に入るとその時は気持ちいいんですけど、海水が入っとるから、ネチネチネチネチして、乾いたら潮をふいとる。それでも入らんより入った方がいい。三日目は陸軍の工兵隊が収容に来ましてね。死人を全部船に収容して島に持ってった。どこの川にも死体がずいぶん浮いていた。絵なんかに川でいっぱい死んだのが描いてありますけど、まさにあの通りでしたね。

三日目くらいにもうだいぶ収容できたかなって思うて歩きよると、プーンと臭いがするんですね。くさい臭いが。これは誰か埋まっとるよって掘ってみると人が死んでいる。死んで物がかぶさっとる。臭いで、埋まっとるのが分かる。

御幸橋の際に私の家があった。帰ってみたら、家はふっとんでなんにもなかった。それも四日目くらいに班長が、自分の家に帰ってもいいよ、っていうから帰った。家なんかありゃしません。爆心地から2.1キロくらい。一番、目についたのはお墓と五右衛門ぶろの釜。後は瓦礫ですね。比治山の裏の段原は家が残ってました。

雀が羽を焼かれて、よう飛ばんと人間の方に寄ってきました。何羽か。昔は馬車があった。それで荷物を運びよられたんでしょうけど、電車道で被爆して、馬がガスかなんか吸うてお腹が破裂して、馬子さんか馬主さんがその横で手綱を持ったまんま死んどっちゃった。その人だけ収容した。馬は収容できんから。

それと電車の中を覗くと逃げ切れなんで電車の中で死んどる人が何人かおられた。私らより先に誰かが行って出しちゃったんかも知れんけど、空っぽの電車もだいぶありました。走りよる時に原爆が落ちたでしょ。停電するから電車は全部ストップするでしょ。周囲が焼けたんで電車も焼けるでしょ。

戦後は焦げた電車が走ってました。塗装せんままのね。わりに交通機関は早くに直して電車が走ってましたよ。

友達の話
これは私の友達の話ですけど、お父さんが梁の下敷きになった。何とかして引っ張り出そうとしてもテコも何もない。お父さんは「お前。早よ、逃げ。そうせんとお前まで死ぬるから」って、言う。火が回ってくる。どねいかだそうと窪みをつけようと思うが掘るもんがないけ、素手で掘った。でもどうにもならんで「お父さんごめん」って泣きながら拝んで帰った。手を見せてくれた。爪はもちろんのこと肉もないようになって、骨が見えてました。その話を泣きながらしてくれた。

彼女の話
私、おませさんじゃったんかね。風紀がうるさい戦時中でも彼女ができて、映画行ったりしよった女の子がおるんですよ。その人はYさんといって綺麗な娘やったんですよ。「お前の彼女綺麗なの」って皆に冷やかされるくらい綺麗な人やった。

それがたまたま、帰ったら「Oさん」って私を呼ぶから見たら女の人は分かるが、顔を見ても誰か分からん。火傷で顔が腫れあがっとる。「誰?」って言って、おおくじくらいました。「一ヶ月もたたんのに何で私の顔忘れてんですか」って。忘れてんですかって、もの凄い酷い顔になてるんですから・・・。「うちの親が流川におるから見てきてくれんか」って頼まれた。班長に事情を話し、タッタ、タッタ早足で行ってみたら、そこらは全滅でした。辛うじて人に聞いたら「ああ、Yさんはみんな亡くなられましたよ」って。その子に「家族皆、お父さんもお母さんも死んどったよ」って言いにくいなあ、と思いながら帰ったらその子も死んでました。その時ホッとしました。

一緒くたに焼くのも忍びなくて、「すまんけど、この子はよう知った子やから、別に焼かしてくれ」って炭をおいて焼いて、骨の一部を持って帰ってます。こっち帰ってから結婚したけど家内には伏せてましたけどね。昔の彼女の骨を持って帰っとるじゃなんじゃ言うたら気分壊したらいけんから。その骨は今も持ってます。

現在
放射能の被害のことは誰も知らんからやったが、今なら誰もやらんと思いますよ。自分もやられるから。私も浴びたいだけ浴びとるでしょ。白血球がゴトンと落ちることがあるんですよね。「あやられた」って思う。最近は安定しています。私は78ですけどお腹に癌が2つもあった。「癌があったよ」って医者に言われた時には「あ、被爆しとるせかな」っていうのは頭をかすめます。そいでなくても私らの年齢になると癌やポリープができやすいけど、自分が被爆して放射能を浴びとるから癌になったかなっと思いますよ。

私の職業の大内塗りのお師匠さんが死んだ家内です。早ように結婚したから、私にはひ孫、原爆4世までおる。やけど子どもくらいにまでは話すけど、孫にはあまりしません。

原爆のお芝居やってやけど、うめき声というのはどんな名優を連れてきて、その時の状態を再現せい言うてもできませんよ。本当に死にかかった人のうめき声と、「おかあさん助けて」「おとうさん助けて」言いよるのはですね。第一臭いがないでしょ?その臭いたるやすごいですからね。