被爆二世の会学習会 被爆体験を聞こう

語り部:Tさん

はじめに
57年前に投下された原爆の実相については、峠三吉さんをはじめとする詩歌などに歌われておったり、映画などになっとったり、ここ(ゆだ苑)にも展示されているように絵画などにたくさん示されております。しかしながら実際に被爆した当人にとっては、まだまだそのような物は実相からややかけ離れているのではないか、何か物足らないものを感じるのです。惨状は絵画などを見たらわかりますが、しかしながら私たちが経験したあの匂い、というものを感じ取ることができません。それはそれは想像に絶するほどの悪臭でした。本当に鼻をつんざくような鋭いものでした。そのようなものは映画などを通しても感じられませんよね、それから水を求めて若者達が水槽の中に頭を突っ込んでいる。それを親が見て自分の子どもはいないか、と一生懸命に探す。その時に、水槽の中から頭を上げ、自分の子どもでないのがわかると、探しにきた親達はまた水槽の中に頭を戻す。そのようなものを思い出すとやりきれない感じがするのです。

東京では
私は1945年3月までは東京におったんです。実は私の顔には傷があるんです。私が中学1年生のときに、「敵がいつ上陸するかわからない。その時には竹槍でふせがなきゃならないので2m位の竹槍を作ってこい」と、先生に言われた。当時竹というのは物干し竿くらいしかないんです。それも永いことありゃ周りは黄色くなっとるでしょう。それを「この角度で切ってこい。」と先生は言う。本当は敵をそれで突き刺すようなことはできんけど、精神訓練でしょう。私は下宿のおばさんに頼んで物干し竿をもらったんです。黄色になった物干し竿を切ろうとしたらツルッツルッと滑る。その時ツルッと滑って親指を切った。その後が今も残っています。できるだけ尖らそうと思っても、ツルツルだからあまり尖らせられなかった。だけども「出来た。出来た。」と、翌日学校に持って行ったんです。私は中学1年の時級長さんでした。配属将校、当時、各小・中学校には軍人さんがそれぞれおって訓練をさせておった。その配属将校が「出せぇ」って言ったら皆竹槍を出すでしょうが、私は級長だから一番左におった。そしたら配属将校は私の竹槍をバーッと引き抜いて「これでアメリカさせるかっ。」と、言って眉間を殴った。血がダラダラッと流れた。保健室に行って新聞紙で頭を押さえた。下宿に帰っておばさんに「どうした?」って聞かれたが言われやせん。「転んだ」って言った。しかし東京で焼夷弾等々を友達が経験し、中学も焼けましたから、1年生を終了したときに母のいる広島に帰ったのです。

原爆投下前の広島
1945年の原爆が投下された頃の広島はどうであったかをお話したいと思います。
丁度広島は兵站基地としての役割を持っていましたし、戦闘部隊の中核としては広島師団と言う大きな師団部隊がありました。西連兵場、今の広島球場になっている所に第5師団と言っている司令部がありました。これは戦闘部隊です。私の父親が軍人だったから良く覚えています。それと同時に全国から赤紙一つで召集された補給部隊というか、そういう人々たちもたくさん各小学校・中学校の空き教室にいました。敗戦の頃で、戦争が始まって4,5年経った頃です。当時制空権と言うか制海権も全部アメリカに奪われておりました。東南アジアを初めとするそう言うところに出かける、その出港はみな広島の宇品でした。だから全国から強制的に呼び集められた補給兵達は皆広島に駐屯しとるわけですよ。
広島に帰った私は、当時中学は義務教育ではないので編入試験を受けねばなりません。昔は広島には県立は一中と二中がありました。私は家が霞町ですから一番近い一中に行ったんですが、一中は編入試験をしないと言う。仕方ないから二中に行ったら「4月には編入試験はしない。6月に編入試験をするから受けに来い。」と言うことで、4月、5月いっぱいは学校に行くことができませんでした。しかし当時の世相からして遊ぶわけに行かないから、いわゆるバイトしたわけですね。
広島市内は中国地方一の大都会でありながらも全然やられていないでしょ。焼夷弾が落ちていないんです。従って軍の命令によって県庁や市役所などその他国の機関がありますね。そのようなものを温存するためにその周辺の民家を強制的に退けておったんです。建物を壊しておったんです。もう私有財産どころじゃないですからね。戦争中は。それを私たちは建物疎開といっておりました。中学1年生及び2年生は公共施設の周辺の建物疎開。中学3年生、4年生、5年生は軍需工場で兵器の製作等にあたっておった。今さっき小学校や中学校には全国から呼び集められた兵隊さん達がずいぶんとおったと申しましたが、中学校では3、4、5年生は皆工場に行っとるから教室があいとるでしょ。小学校では学童疎開と言って田舎に皆強制的に疎開させましたから教室があいとった。従って、小・中学校に兵隊さんがたくさんおったわけです。私は、その二ヶ月の間バイトで建物疎開される材木を馬車に乗せて運ぶ仕事をしていました。その時市内のあちらこちらに行き、「小・中学校に兵隊さんがたくさんおるなぁ。なるほど軍都広島じゃなぁ。」と、つくづく思いました。
さて6月1日、二中の編入試験を受けて幸いにして合格しました。やっと勉強が出来るなと思ったら、2年生ですから建物疎開に毎日動員させられるわけですね。まったく勉強しませんでした。終戦後は勉強しましたよ。だけどもその終戦までは学徒動員で軍事物資を貯蔵するための横穴掘りや建物疎開に行って勉強は全くしませんでした。

当時の食糧事情
話が又それるけど、闘いに従事するのは看護婦さんを除いてだいたい男でしょう。そうすると農家の人達も働き盛りが皆兵隊さんに行くんやから農地があれてしまいますね。当然食料が不足するでしょう。食べ物は公式には一日2合五勺の配給があると言いながらもお米のご飯を食べた経験はありません。当時、半植民地だった満州から大豆がたくさん入っておりました。大豆が配給になって、そしてホーローで炒ってその豆を2つぶ3つぶと食べる。勤労奉仕に行ったときにはその大豆が配給になりますから、おちょこ一杯くらいをくれておりましたし。私は稲にたくさん発生していますイナゴをとっては食べておりました。
未だに覚えておりますが私の弟が小学校の5年生の時に肋膜で病気になったときに「どうしても米が欲しい。弟に白米のお粥を食べさせてやりたい。」と、思って農家の友達に頭を下げて下げて一升ほどお米を分けて貰いました。その時、親しい友達がやっとくれた玄米を貰って、一升瓶に詰めて、竹の棒でキュキュキュキュ何回もやって、糠をのけてお粥を作って弟に食べさせてやった。あの事を私は忘れることが出来ません。

8月6日
さて8月の6日はですね。先ほど申しましたように私は14才ですから中学2年生です。したがって今から50何年前のことをですね、確実に思い出せと言ってもそれは無理です。私の頭の中に強烈に残っとることだけをお話したいと思います。
8月6日まで爆心地から700mのとこで建物疎開をしていたのですが、8月6日は偶然にも爆心地から1.8km離れた東練兵場に派遣されました。それで助かったんです。もう一つ運だなと思ったのは、運があるのかどうか知りませんが、もしも私が第一希望の一中に行っとったら私は死んどった。今平和公園の所に広島県立第二中学校の慰霊碑があります。二中の一年生全部と先生も死んだ。私は二中の二年生で6日に東練兵場に派遣されたから生き残った。不思議なもんですね。
さて8月6日は、東練兵場の除草に行くんだと命令がありましたので、朝7時頃家を出なければ間に合わん。当時はみんな徒歩です。行く道の途中で、警戒警報になってサイレンが鳴ったことは覚えています。敵機が市内の上空より離れて周囲に来ておれば、警戒警報、「注意しなさいよ。」と、言うことで、サイレンがプーッと一分間くらいなる。上空に来たときには「直接被弾するおそれがあるんだ」と、言うときにはブーブーブーと何回も短いサイレンが鳴るんです。その時には時間はよく知りませんが、後ほど聞きましたら7時半頃だと言うことなのでそうでしょう。警戒警報と言うか長いサイレンを聞いたのは覚えておる。戦時中の事ですから、集合時間が決められてますから、それに間に合わないとどれ程の往復ビンタを食らうか分からないですからね。警戒警報解除になって一目散に走って東練兵場には8時頃についた。

8時15分
で、8時15分になったら先生の集合という笛が鳴りましたから、2列横隊にならんだ。その時に主任の先生が全体に話をなさる。当時の先生はいばっとったからねぇ。命令調で訓戒です。なんかの話をしよったときです。忘れもせん。ちょうど上空からなんとなく飛行機のブーンと言うようなキーンと言うような音が聞こえた。私はさっき来たB29を日本の飛行機が追いかけて追撃して再び広島上空に戻ってきたんだなと思ったが、見たら、B29が一機飛んどる。「あらB29じゃ、敵機じゃ」と思った。私の隣の人も小声で「B29じゃ」って言いよる。私語をしたら先生にビンタされる。
そうしよったらB29からパラシュートがスーッと降りてきた。その頃耐乏生活7年。着るものもない生活しよったでしょう。「ああ、パラシュートがほしい」と思ったよ。その瞬間でした。ピカーッと光って、光ったと同時にドッカーンと来た。そうしたら私の五勺あまりの体が一瞬のうちに地面にたたきつけられた。地響きがする。爆心地から1.8kmも離れ取るのに。ガガガガガッと地響きがした。まさに忘れもしない。頭を木の槌で叩かれたようでした。
私は広島のガスタンクが爆発したと思った。なぜか? 当時、爆弾が落ちた所には穴が空く。焼夷弾って言うのは夜落ちて、ある一定の地域だけが焼ける。だから私は当然広島のガスタンクが爆発したと思った。
その時訓練と言うのは怖いもので常に爆弾が落ちるとき小指で鼻をつまめ、親指で耳を押さえ残った指で目を押さえるよう厳しく言われしょっちゅう練習させられた。ドカーンと来たときにはそうやっとった。「あーーーーっ」と息をした。一分もやるわけないね。何秒か、数秒でしょう。
そうして息が苦しくなってちょと鼻を開けてみたときの臭い。それは硫黄の腐ったような、なんと言うかしらんけども、とにかく臭かった。本当に鼻を突く嫌な臭いでした。これを吸うちゃいかんと思って慌てて鼻をふさいだ。
そして私は立ち上がろうとしました。そしたら前面は50m先が見えない。煙がずーっと一杯です。立ち上がろうとしてもサツマイモ畑の畝につまずいて立ち上がれない。で、もう一回首を上げたけど全面が茶褐色でした。薄煙の間からパラッパラと火が見える。あらぁ?僕らの頭の上に爆弾が落ちたはずなのに、何でだろうと思った。山の中腹には家がポツンポツンとあった。そのような家が煙を出しとる。電信柱から煙がたっとる。なんの爆弾かわからん。よく原子雲と言うかキノコ型の雲があるが、あれを見たのは遠くにおった人でしょう。私たちはその雲の下におったんかどうか知りませんが、そんな雲は全然知りません。そうしよるうちに他の友達が起きあがった。そして本能的に駅に向かって歩いた。もう解散とかそんな号令はなかった。先生はいなかった。

「おいT、おまえの顔どうしたんか。」
爆弾が落ちてから20分か30分か経ったんでしょう。駅に向かっていくと、今度は駅の方から北へ向けて、どんどんどんどん人が来る。それを見ると皆茶色いような黒っぽいような姿しとるでしょ。「おいおい市内のほうはいかれやせんで。」ってことで、山へ逃げた。すると友達が「おいT、おまえの顔どうしたんか。」と言う。友達の顔を見ると脂ぎってサツマイモの葉っぱがひっついとる。僕は顔に手をやった。そしたらずるっとむけた。友達も顔に手をやるとずるっとむけた。手もビチャビチャになっとる。こりゃ大変でよっと友達と日陰に入った。なんとも太陽光線がカンカンと照って、直射日光が当たると顔がヒリヒリして痛い。目には汗がたれるは、でやれんのです。日陰に入った時に駅からやってくる人の中に薬を携行しとる人がおった。その人が薬を取り出して、私の顔に白い薬をチョチョチョチョッと塗ってくれた。友達にも塗ってくれた。友達は谷の清水を見つけて、日陰におりながらも顔がヒリヒリするんで水で冷やそうと顔に水をかけよる。私は欲が深いから痛いことは痛くてたまらなかったけど、塗って貰った薬がもったいないから顔には水をかけなかった。
そして山の上に上がった。広島市内がポッポッポッポ燃えよるのが見えた。私たちは軍事教練を受けており米英に対する敵愾心が強かった。ほじゃから「今に見とれ。やっちゃるぞ」と言うような意味の言葉で罵ったのを覚えておる。

幽霊のような被災者
それから帰ろうと言うことで広島駅に向かった。広島駅は切符を売るところは鉄筋で後は木造だから皆倒れとった。切符を売る講堂みたいなところには大勢の人々がうずくまって呻いていた。立っとるものはおらん。子どもをいやす声、とにかくうなる声、念仏なんかも耳に残っています。
それから猿猴橋まで行ったらポッポッポ燃えておって、そこから先へは行けんので広島駅に戻り、宇品線の線路を歩いた。相対する人は皆幽霊のようなかっこうして手をぶらさげて歩いておった。私の学生服は皮膚が垂れたようにボロボロにはなっていなかった。1.8kmくらい離れとるからね。しかし大勢の人達は手をぶら下げて、そりゃそうだろうね、着とるものがくっつくでしょう。痛いんだね。子どもを背負っとる人もおる。子どもは男か女かわかりません。「こりゃ大変だな。ひどい人がいっぱいおるな。」と思った。
川には人が大勢です。橋も本当は渡っちゃいけんのに渡りよる。川にはいっぱい人がおる。後で聞くとそのような人は水を求めて川の中に入ったそうですけど、そんなことはわからんから「川の中によけい人がおらぁ。」と思った。
道行く人達を見ながら私は家へと向かった。兵器廠、軍需製品を作る機械工場と言うか武器などを作るところがある。この周りは機密ですから20m位の塀でずーっと囲っていますから、外からは中が全然見えないようになっている。しかしながら正面玄関は車が出入りするから門が開いておる。これこそ敵の攻撃目標になると私は思っておりましたが、見たところ全く外観は傷んでおりませんでした。しかし兵隊さんや工場労働者が右往左往しておりました。峠三吉さんの詩では中が想像も付かないようになっておったが、私にはわかりませんでした。被服廠も外観はなんともなっていなかった。

弟が帰ってこない
私は午後1時頃家へ帰りました。私の家の周辺は屋根がガチャガチャッと壊れておりましたけど私の家はそれほど何ともなっていなかった。私が門から入ったときには全く見知らぬ人達が庭に何家族か来ておりました。家に入ると廊下のガラスが全部飛んでおり、2階のあるところは天井があったけど、無いところは天井が皆無かった。家の中にも2、3家族被災者がおった。私が帰ったときには薬は被災者に分けていたので何もありませんでした。

一番涼しいのは台所でしたのでそこにおったら母親が、私の弟はミツトシと言う名前ですが「みっちゃんがまだ帰らんのよ」と言う。「ああ、そうか。」と思った。さて弟はどこに行っとるんかと思ったけど分からん。それから3時頃だったでしょうか。「お母さーん」と言う声が玄関でしたと思ったら、バタッと倒れた音がした。弟が帰ってきたと母親と一緒に玄関へ行った。私は弟を見て呆然としたんですが母親と言うのは子どもに対する愛情というのは激しいですね。「何をぼやぼやしとるか」と母親に言われて私は足の方を母親は頭の方を持って一番涼しい台所の板の間に寝かせた。

そしたら「痛いよぅ。痛いよぅ」て言うんじゃあね。あの声は凄かった。みりゃー皮が剥げて真っ白になっとる。赤くなって毛穴が点々とぶつぶつがいっぱいできとる。顔も皮が剥げとる。「痛いよ。痛いよ。死にとうない。死にとうない」と言う。「痛いよ」だけなら我慢できる。自分が死ぬると思うたんか「死にとうない。死にとうない」って言うんですよ。薬はない。今はクーラーや扇風機があるでしょう。今から57年前は扇風機のある家はほとんどない。当時はウチワです。私は一生懸命扇ぐ以外何もすることができない。母親は新聞紙を顔に付けたりしてベチャベチャを吸い取る。弟は「痛いよ。痛いよ。死にとうない。死にとうない」と言う。そうしよったら庭におる人達が「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」と言う。部屋からは「何々ちゃん。何々ちゃん」って言う。死によるんでしょうね。その夜私は家の中で寝れんかった。外に出ると満天の星空やった。今思えばばからしい。戦争と言うのはね。

人骨を砕いて薬に
翌日もギンギラギンの天気やった。家の近くの小学校に兵隊さんが何人かおった。すぐ薬をもらいに行った。そうしたら、どんどんどんどん死体が運ばれてきた。グランドに2m位の穴をいっぱい掘って、市内の建物疎開で集めた板をその穴に敷いて、死体を並べ焼いた。それがまた臭いんじゃあね。それは想像もつかない臭い。病気で死んだんじゃないから骨も真っ白。骨は校舎の麓に堆くつんどった。

私は時々そこへ行って薬をぬってもらう。弟は動けないから「薬をくれ」と言ったがくれん。弟は全く薬を塗ってもらえんかった。私は赤チンと言いよったと思うが塗ったら染みるんじゃーね。薬じゃけ治るんじゃろうと思って塗って貰った。

そうするうちに、「人の骨を金槌で砕いて粉にしてベチャベチャに脂ぎってる皮膚につけると乾燥する。従って人骨を粉にして焼けたあとに塗れ」と誰とはなしに言ったので私はそこに行っては他の人と一緒に骨を砕いて家に持って帰った。家に持って帰って弟にずーっと塗ってやった。

家におった他の人は二,三日で皆よそに行きました。最後までうちの家におらしてくれっていった人は一ヶ月ぐらいおった。

8月15日が敗戦と言うか終戦です。流言飛語と言うか今度はロシアがやってくると噂があった。弟をそのままにしてはおけないと言うことで大八車に乗せて20kmとはいわん先の母親の里へ連れて行った。そこで医者に診せた。下痢がすごかったから。毎日水のような下痢でしたから。「これは赤痢じゃ」っと医者は言った。連れてってから一週間位で死にました。被爆後、三週間か四週間後に死にました。

人権は守られない
とにかく戦時中は想像も付かないほど上意下達と言うかもう一学年でも一階級でも上、いわんや先生、上官の命令は不合理だなと思っても絶対指摘するわけにはいかない。上の命令は必ず服従しなければならないのが戦時体制です。

したがって話はそれますけどね。人権擁護保護法案とか有事法制関連法案と色々言ってますが、今でこそ問題点が色々指摘されておりますけども、今はよかろうとおもうようなことでもですね、いざその段階になり武力攻撃に実際遭遇するようなことになりますと戦前と同じように人権と言うのはそりゃあ擁護される所ではなかろうと思います。

時間を過ごしたと思いますのでこれで終わります。